2015年4月15日水曜日

神様がやったこと

生きていると様々なことがあります。

時にはどう考えても辻褄が合わないことや、私の価値観だと「不条理」に思えることだって起きます。

「常識」というのは厄介なもので、今迄培ってきた自分自身の常識。ところがこの常識に合わないことが起きると、それは「非常識」だと裁きたくなる自分が居ます。

ところが世の中は、実は不条理なことであふれていて、かつ、常識という厄介なものはある意味一方向からのただの個人の価値観に過ぎないのかもしれません。

その判断すべき基準は、もしかしたらものすごく低く、何か実質的な危害を加えられる、とか、明らかに法律に違反している、といったことに適応させるべきで、そこまでいくならこれは警察に相談すべき次元です。

それ以外の出来事は、ただの価値観の相違であって、私の思うところの常識は、相手からしたら非常識かもしれない、それくらい世の中は納得いかないことであふれていると、思うべきなのかもしれませんね。

とはいえ、そのことに一喜一憂してしまう自分が居ます。思考はグルグルとメビウスの輪のように堂々巡りをし、自分の価値観を確かめるために、人に相談したり、ネットで調べたり、正当性を確かめたくなります。

私なんかは、正義感は強い方だと自覚していますが、この正義感というものも実は困ったヤツで、相手を白黒でバシッとやっつけても実は解決しないこと山ほどあります。白黒で裁くのは実は自分の価値観を認めさせたいだけで、相手の持っている価値観は否定しているのかもしれません。

また、自分にとって近い関係であればあるほど、相手に分かってほしいという気持ちが強くなります。

この、分かって欲しいという気持ちを手放すこと、が大事なのかもしれませんね。その一番の解決策は、「諦める」こと。そのことで悩んでしまう自分の時間が勿体無い。相手云々より自分自身がどうありたいのか、そこに時間を費やした方が良いかもしれません。

ただ、不条理なことから逃げたり、避けたりはしたくありません。目をつむったり、耳をふさいでも、それは逃げているだけで、そういう人には余計に降りかかってくるかもしれません。

考え方を、変えてみます。


これは、天の神様が私にやったことなんだ、と。

1ヶ月ほど前、私に降りかかった不条理なことは、とても悩みましたが、その後私自身を成長させることにとても役に立ちました。これは私に降りかかる試練ではなく、むしろチャンスなのかもしれない。

そう思うようにしています。



少しだけ、強くなれたかもしれません。




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