2014年4月25日金曜日

今日の読書から

僕がそれよりも更にうんざりさせられのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う「うつろな人間たち」だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くず(わらくず)で埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押しつけようとする人間だ。

ゲイだろうが、レズビアンだろうが、ストレートだろうが、フェミニストだろうが、ファシストの豚だろうが、コミュニストだろうが、ハレ・クリシュナだろうが、そんなことはどうだっていい。どんな旗を掲げていようが、僕はまったくかまいはしない。僕が我慢できないのはそういううつろな連中なんだ。そういう人々を前にすると、僕は我慢できなくなってしまう。ついつい余計なことを口にしてしまう。

想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ、ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪(さんだつ)された理想、硬直したシステム。僕にとってほんとうに怖いのはそういうものだ。僕はそういうものを心から恐れ憎む。

なにが正しいか正しくないかーもちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。

しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこに救いはない。僕としては、その手のものにここには入ってきてもらいたくない。

僕はそういうものを適当に笑い飛ばしてやりすごしてしまうことができない。


 

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